まちかんてぃ!通信 第2号

まちかんてぃ!通信 第2号

第2号
連載・聞き書き その2

私は7人兄弟の長女として生まれました。土地はたくさんあったのですが、父が病気がちで働き手がいなっかたのです。ですから、早朝から父と一緒に芋ほりなどをしてから学校に行ったり、学校の途中でも帰って畑をしたりの毎日でした。お金は無いが親の愛情は充分受けたと実感しています。
小学6年生の夏休みに学校の先生のお家にお手伝いさんとして住み込みで働くようになり、学校は中退しました。嫌だったのはそのお家の赤ちゃんにおっぱいをあげるため、昼休みに学校に連れて行くことでした。一番行きたい場所に行くのに自分は勉強出来ない。これがなんとも辛く耐えられず、しばらくして口を聞いてくれた叔母さんに頼んで辞めました。学校に行けないがまっとうに生きてみせると決意したのもこの頃です。
結婚しましたが人の妻としてやっていけるのか、子育てができるのか不安でした。でも、子供たちに勉強をしろと言ったことはありませんし、塾にも入れませんでした。学校の授業が基本だからです。子供は大学まで進み自立しました。
自分でも努力しました。もともと読書が好きでしたから、手当たり次第に本を読みました。辞書はいつも持ち歩いて分からない言葉はすぐ引いて確認します。漱石、鴎外、啄木などを読みました。子供や孫にも電話ではなく手紙を書くようにして、文章も自分なりに書けるように心掛けています。今となっては笑い話ですが、会社勤めをしていた時上司に呼ばれ、履歴書に高校卒業ならそう書かないと給料に響くよと言われました。実体は中学を卒業していないので、ひやひやものでした。
学歴がないことでコンプレックスを感じたことはありません。でも、たえず学歴ではなく学校行きたい、学びたいと思い続けてきました。自分はなんのために生まれてきたのか。後何年生きるか知りませんが残された時間を自分のために使いたい。古い価値観を捨てて自分を見出したいと。珊瑚舎スコーレの夜間中学の新聞記事を見た時、鳥肌がたちました。50年間咽に刺さっていた棘がとれるのではないかと思い、珊瑚舎がどこにあるかも知らず、那覇の樋川、樋川と思って来たら間違って国場の樋川に行って慌てました。学ぶことがこんなに楽しいのかと今実感しています。
その内今のクラスで修学旅行がしたいですね。結婚して京都や東北に旅行しましたが、いつもどこかに修学旅行だったらという思いがあるんです。小学校の時20円が無くて参加できなかったんですね。今は少子化で廃校になったり、教員が余ったりする時代です。どうして私たちのような者のために活用してくれないんでしょうかと知り合いの先生に訴えたことがあります。「おしん」なんてもんじゃありません。
戦争の体験も大きいです。生活のためにアメリカにわたった同級生も多いのです。父は先妻との間の兄を2人戦死させたことを悔いていました。意味の無い負け戦だと止めたそうですが兄たちは結果亡くなりました。戦時中家で飼っていた”ウァー(ブタ)”が戦闘機に撃たれ屋根に飛ばされてしまい、大慌てでシンメー鍋を火にかけてご馳走を作ったという泣くに泣けない話もありますが、子供心にも親の後をついて逃げ回ったことは忘れられません。ですから子供を戦争に行かせないためなら刑務所に入ってもいいと思っています。(M.I.さん談)

 

 

家政婦をしています。4月に仕事先で夜間中学の新聞を見た時、思わず「あー神様は私を助けてくれるんだ。味方をしてくれる。」と声に出してしまいました。いつも学校を出ていないことが胸につかえていました。オオトロバイ(とっても鈍い)なので子どもや孫に関する世間話しか出来ませんし、話を合わせられないことがコンプレックスになり、引っ込み思案のまま生きてきました。この歳になっても、学校を卒業する夢を何度も何度も見るのです。ここに入学してから、ようやくその夢が消えてくれました。
6年生までは、田舎でなんとか学校に通っていました。兄に自分の家で子守りをするように言われました。嫌だといったのですが、学校カバンごと力ずくで那覇に連れてこられました。それからは毎日、甥や姪の世話で明け暮れました。それでも合間をぬって中学に通いましたが、しばらくして兄が商売に失敗し大きな借金が出来てしまったのです。高校受験の準備をしている友人を羨ましく思いました。受験料がないのは分かっていましたが、兄に話を持ちかけてみました。返事がありません。その沈黙に耐え切れず自分から来年もあるしと言ってしまいました。すかさず兄は、なんとかなるさぁと答えました。その来年になったらますます貧乏になって、鉛筆を持つどころではありませんでした。
この後は住み込みで働き、盆も正月もありません。レストランのウエイトレスなどを転々としました。学校もろくに行っていないので、これぐらいしか仕事がないのです。稼いだ金は一銭も手をつけず母に仕送りをしました。同い年の兄弟は母の元にいて進学しました。それを思うと自分一人見捨てられたような、犠牲になったような気分がしました。女だから学校は二の次と思われていたのです。あの時に少しでもジンブン(知恵、知識)があったなら、役所に頼めばなんとかなったのではないかと思ったりします。父が戦死していますし、働いて後でお金を返すようなことが出来たのではと、今でも諦めきれないのです。
同じような境遇の夫と結婚しました。向うも南洋で親を亡くし、工業高校に受かっていたのに貧乏で通いきれなかったのです。他人に負けまいと努力し大工の棟梁になりましたが。
今が一番幸せです。通えてラッキーです。夫も誘ったのですが、あんたががんばってやりなさい、見といてあげると言ってくれました。娘は母さん勉強したかったんだねー、協力するよと言って、今までしなかった洗濯や炊事を引き受けてくれてびっくり、思わぬ教育効果ですよ。仕事先の奥さんにも話ました。身体は持つのかと心配してくれ、雨の日に洗濯できないと勉強したらと配慮してくれます。クラスに友達ができました。仕事場は一人なので仲間がいるって何年ぶりの感覚でしょうか。勉強はしっかりやって、いつか定時制高校に上がりたいです。(O.U.さん談)

2017-09-20T09:52:38+00:00 2017/09/19 11:14:51 AM |まちかんてぃ通信|