まちかんてぃ!通信 第5号

まちかんてぃ!通信 第5号

第5号
連載・聞き書き その5

新聞で知り、よかった!とすぐ申し込みました。もっと早くに出来ていれば、その時に入ったはずです。
父が小学校にあがる前に事故で亡くなりました。7人兄弟の5番目です。母は住み込みで働いていましたので、祖父母の手によって育てられました。おばぁちゃんが豆腐屋をしており、その手伝いはよくしました。水汲み、豆を入れた大鍋を沸かすこと、そうじなどです。つらいというより当たり前のことでした。尋常小学校を卒業し高等科の2年まで通っています。たまたま家があった地域が首里だったのでクラスのほとんどが女学校に行くような学校でした。家に金が無いのは分かっていましたが、上の兄3人は旧制中学校まで上がっていたので、上に行きたいという気持ちがありました。ある日、すぐ上の兄がいた側で行きたいなぁと独り言で口に出してしまったのです。兄が烈火のごとく怒り「自分も行けないのに、お前が行けるわけ無いだろう」と怒鳴られました。ショックでした。何の気なしに口をついた言葉で現実をはっきりと知ることになったのです。勿論母には言いません。気苦労をかけるだけですから。学校では、受験しないと言うと先生が変な顔をしました。そのあたりから、なんとなく周囲にコンプレックスを持ち、遠足に行っても下級生とお昼を食べたりしていました。今考えると、馬鹿げたことですが、この思いを長く引きずってしまいました。
15歳の時戦争が激しくなり、3月にヤンバルに疎開しました。山間の茅葺きの家に母や下の兄弟と暮らしました。艦砲射撃や機銃の音はしましたが、私たちのところは被害をうけませんでした。食べ物は人の居なくなった部落の周辺で拾い、着る物も民家から持ち出していました。米兵が通訳を連れて来て、山を下り、集められて配給をもらいました。夜、日本兵が来て、戦争に勝つから逃げろと言われ配給物資をその兵隊にあげ、また山に逃げました。7月に山から下りてきたらポリスからなんで山に居たのかとびっくりされました。収容所には入らず、近くの民家を割り当てられました。大きな瓦屋根の上等屋で、蔵もありました。配給もありましたが蔵には米がいっぱいあり、ビンに入れついて食べました。落ち着くと米兵から洗濯を頼まれるようになります。洗濯物が入った袋にはいろんな缶詰が入っています。口にしたことのないようなクッキーや肉がありました。一年間ヤンバルに居ました。
実家に戻ってみると、家がつぶれていました。爆撃によってではありません。あるはずの鍋、釜などがないし、びっくりしたのは家の柱を持っていかれていたのです。しばらくはテントの家でした。役所に行って軍の仕事を探しました。最初はヘビーレバー(重労働)からやります。掃除が主でした。次に軍の家庭のお手伝いに入りました。慣れてくるとブロークンですが会話も出来るようになりました。
学校に行かなかったことが劣等感となっていたからでしょうか、ペン習字、習字、合唱、英会話教室といろんな習い事に通いました。「くもん」も行こうかと考えました。10年前からはカメラに凝って、2つのサークルに入っています。主に風景写真です。北海道、東北、京都、奈良あちこち出かけます。沖縄では海が好きです。好奇心が強いんですかね。でも、今はこの夜間中学の勉強が一番です。個展を開くより勉強をがんばって高校に進みたいです。(Y.A.さん談)

夜間中学のことはテレビ番組や山田洋次監督の「学校」を観て知っていましたが、沖縄にいる自分とは縁がないものと思っていました。夕刊で沖縄に出来ると知って、えー内地のことじゃないんだとその夜すぐ電話をしました。
戦争中は宮崎県に疎開をし、糸満に戻ってきました。5人兄弟ですが、私の3番目までは働かないと喰えない時代でした。母が身体が不自由なこともあり、そのころ商売をしていた金物屋を母と一緒に切り盛りしていました。小学校4年生からは午前中学校に行き、午後は毎日仕入れにトラックバスに乗り那覇まで通います。トラックに幌をかけたものです。この間県庁前にそれが展示され、懐かしくて見に行きました。中学になって、学校に通わすことが条件で住み込みにはいりました。はりきって教科書を背負って行ったんですが、現実は厳しかったです。別に意地悪されたりいじめられたわけではなく、むしろ子どものようにしてもらいましたが、商売の仕事が忙しかったので諦めざるをえなかったのです。ここに26歳で結婚するまでお世話になりました。ある時期からは仕入れから接待までまかされていました。教わったことも多くあります。各法事のしきたりから料理まで仕込まれましたし、また人との対応の仕方も身につきました。今になって価値があったと思いますね。姉や兄は人に交わるのを苦手としますが私は平気です。税務署でもなんでも分からないことは聞いてやればいいと思っていますから。人の輪に適合する力をつけました。
人生を後悔はしないと決めて、どんな境遇であっても自分で選びとったものだと考えて生きてきました。自分の判断、価値観で動くものと考えています。それだけに自分に中身がないのが嫌なんです。耳学問で頑張ってきましたが、基礎が分からないままにいろんな事を取り入れても限界があります。人間ドキュメンタリーを観たりすると、こちらも充実します。それだけのことをやり遂げる姿に感動します。自分はやろうにも出来る力がないのですから。学校のことは、基礎はいずれ年金をとるようになったら誰かに教えてもらおうと思っていました。夢を持ちつづければいつか叶うと自分を励ましてきたので、夜間中学が沖縄に出来るとは、その嬉しさはすぐ言葉にならないですね。今回通うにあたって、夫は私が外に出るのを嫌うので、最終的には離婚してでも行く、そのくらいの覚悟はあると言おうと思っていました。子ども達にも一応相談しました。3人とも、いいじゃないか、やったらいいよと言ってくれ、夫も思ったより簡単に納得してくれました。毎晩通うのはやはり大変です。6時に仕事を終え、駆けつけてくるのですが、復習する時間が取れないんです。仕事を辞めて集中しようかとも考えますが、無理がありますから、ゆっくりでもいいから70歳までに積み重ねて通信制高校に行きたいですね。
授業はすばらしいです。先生方が生徒を大切にしてくれるのがありがたいです。もっと厳しく遠慮なく教えてください。(K.T.さん談) 

2017-09-20T11:32:43+00:00 2017/09/20 11:24:27 AM |まちかんてぃ通信|