まちかんてぃ!通信 第1号

まちかんてぃ!通信 第1号

第1号
連載・聞き書き その1

私のお父さんとお母さんは南洋で亡くなりました。お父さんは戦死し、お母さんは弟を産んだ後で亡くなりました。その時私は5歳でした。産まれたばかりの弟と2人船に乗り、沖縄に帰ってきました。叔父さんが港に迎えに出てくれていました。叔父さんとはこの時初めて会いました。そしてこの叔父さんに弟と2人面倒をみてもらうことになります。
叔父さんが結婚して、子供が2人出来てからは4人兄弟として育てられました。5歳のときから弟の子守りをし、その後は甥もふくめて3人の子供たちの世話をしました。同じ子供同士ですから大変でした。何回か学校に入学するようにと書類が来て、行きたいと強く思いましたが「だれがこの子達の面倒を見るの?あんただよー」と言われ、仕事で忙しい叔父さんを見ていると口答えが出来ませんでした。一番年上で女だったからすべての面倒は私がみることになったのです。それでも勉強がしたくて、弟たちの小学1年、2年の教科書を借りて、ひらがな・漢字を自分で拾って習いましたが、出来きれませんでした。
17歳のとき、自由になりたくて家を出て働き出しました。でも、字の読み書きが出来ず、うまくいきませんでした。その後25歳でお父さんの叔母さん宅に引き取られ、家事を引き受けました。家事のことなら人に負けない自信があります。結婚する時も、最初は学校に行っていないことでバカにされないかねぇとイヤイヤでした。でも、そんなことは全くなくマチマチ(待ち待ち)していた2人の子供にも恵まれました。学校に行っていないので仕事を見つけるのは大変でした。ビルの掃除や保育園の手伝いなどをして働いてきました。
私は新聞も読めません。娘がこの学校のことを新聞で知り「行ってみるかねぇ。まだ間に合うかもよ。行くなら今すぐ連れて行くよ」と言われて、焦ってこっちに来て入学手続きをしました。今は毎日楽しいです。漢字はまだ書ききれないので、算数が好きです。計算が合っていると、私にも出来る!と嬉しくなります。教えてもらって出来ても、それは身に付いたことにならないので〇は付けず、△か×にします。自分で答えを出しきれた時が本当に身に付いたはずと思っています。(U・Mさん談)

夜間中学を知ったのは平成10年6月にNHKのラジオで見城先生(東京都江東区文化中学の夜間学級の元教員)のことが放送されたからです。こういう学校っていいなぁと思いました。それが去年の12月に「こんばんは」の映画上映があると新聞で知り、見城先生に手紙を書こうと住所を問い合わせました。その過程で映画センターの方から珊瑚舎スコーレが夜間中学を始めると聞き、申し込みました。
戦争中は熊本に疎開していました。ずっと後になって母から、実は対馬丸(米軍潜水艇に撃沈された学童疎開船。1661人の乗客のうち、生存者わずか156人という惨事です)に乗るはずだったが、あまりの混雑振りに次の船にしたと聞かされびっくりしました。戦後すぐに沖縄に戻り、ヤンバル(沖縄の北部)に逃げていた父に再会しました。もし、父が南部(沖縄戦の激戦地)に逃げていたら会えなかったでしょう。でも、父は戦争にもいけないほど身体が弱かったため、無理がたたりまもなく亡くなりました。母は4人の子供を抱えて苦労しました。
私は小学5年生の時、校庭で事故に会ったのです。フットボールをしていた生徒4~5人がボールを追いかけて、遊んでいた私の上に倒れこんでしまったのです。痛かったのですが、いわゆるケガで血が出るといった状態ではなかったので、先生に痛みを訴えることもせず黙って帰りました。それ以来股関節がダメになり、片足を引きずってしか歩けなくなってしまいました。金も無いし保険制度もない時代です。まして、事故の責任とか保障という考えもありませんでした。痛むとギブスをしていました。小学校はまだなんとか通えたのですが、中学校は遠くて通いきれません。叔母さんの家の子守りをしたり、縫い物を教わったりしました。
母は歩けないなら学校に行かなくてもいい、手に職を持ったらいいさぁという考えでした。従姉妹を通して、母が女は学校なんか行かんでもいいと思っていることを知りショックでした。ただ、一つ違いの兄が母に学校に行かせなさいと意見してくれましたが、その時の私は兄の真意を察しきれなかったのです。私自身は痛くて歩けなかったので仕方ないことと思っていました。なにもかも諦めていたのです。
しかし、歳はとっても勉強したい、基礎を学びたいという思いがうずいていました。どこかごまかしごまかし生きているような気分なのです。会話などでつまずいてしまうことがあります。いきなり知らない四字熟語で返されると絶句し、分かったふりをしますが苦しくなります。また、心の中に少女のままの気持ち(成長していない部分)が一杯つまっているのを感じるのです。
5月は月桃の花の季節です。この花だけは戦争が終わってなにもない瓦礫の藪の中でも変わらず咲いていました。入学式のみんなの喜んでいる姿、弾んだ声がこの花と重なりました。花は小さいけれど純白とピンクで、世間ずれしていない少女のようです。歩きながら月桃の花を見ると夜間中学のみんなに似ているねぇ、同じ想いねぇーと思います。
もう少しであっち側に行く歳なんでしょうが、でも学びたいですね。自分がきちんと学んだらあの世の母に報告できます。今は幸せですよ。やりたかったことをやれているんです。頭に入るには時間がかかりますが、先生の教えたい気持ちが分かっているので、精一杯吸収しようとしています。(U.N.さん談)

2017-09-20T09:53:48+00:00 2017/05/22 1:01:49 PM |まちかんてぃ通信|