まちかんてぃ!通信 第4号

まちかんてぃ!通信 第4号

第4号
連載・聞き書き その4

夜間中学のことは知り合いに40歳過ぎて大阪の夜間中学を卒業した人がいたので少しは知っていました。その人から映画「こんばんは」を勧められ観に行きました。いろんな人が学んでいて心強かったです。沖縄でも夜間中学が始まると知り、友達と誘い合って入学しました。私は「安里屋ユンタ」や「島のブルース」などの踊りや太鼓を教えています。その際いろいろ字を書く機会が多いのです。きれいな字を書いてあげたいと思うのですが、なかなか上手く書けないので、この際勉強し直そうと決心しました。いつまでも他人に頼っていられませんから。
宮古島に9人兄弟の3女として生まれました。4歳の時、父が盲目になりました。栄養失調でトリメになり、医者もなく目のつぼを”やいと”(お灸)で治療するしかなかったのです。ある日そのやいとをしたところ目から川のように血が出て、見えなくなったのです。働き手は母と2人の姉です。とはいえ食べるものが無く、近所の子守りをさせてもらい芋をもらって食べていました。なにが辛いって食べ物がないことです。少しの米にカンダバー(芋のかずら)を入れ、家族分になるように水を足しジューシー(おじや)にしますが、すぐお腹がすくのです。小学校は入学しました。1年の時、担任のナカムラ先生が洋服の配給キップが当るようにしてくれましたが、家に帰ったらお金がないので代えられないと言われ短い夢で終わりました。学校もこの1年だけです。でも、空襲を避けて学校の裏山の松の下で1+1=2、2+2=4と地面に書いたことだけは覚えています。
8歳から11歳まで、ある家に女中として住み込みました。子守り、畑仕事、薪取りなんでもします。学校には行かせるという約束でしたが通う暇はありませんでした。給金の代わりに時に、芋や味噌をもらいました。子供には重いのですが、親に会いたさに泣きながら頭に乗せて運びました。14歳の頃、姉さんと私を”サカナヤー”(売春宿)が買いに来ました。母は売った金でものを食べるのは、娘を殺して食べるようなものだと断りました。金が無いから学校に行かされんけど、どんなことをしても子供を売ったりしないとはっきり言ってくれました。この時の母の気丈夫な姿は忘れられません。当時は女の子だけではなく男の子も”イトマンウリ”と言って糸満に漁師として売られたのです。貧乏でも嘘はつくな、道をまっすぐ歩け、人に可愛がられるようになれと教えられました。母があってこそ生きてこられたと思っています。14歳で沖縄島に渡り、女中を始めとして様々な仕事をし、稼いだお金はほとんど仕送りしました。7番目の兄弟から学校に通えるようになったんです。仕事先で夫と知り合い、結婚しました。勉強だけが大事なんじゃない、お前は体で覚えることをしたらいいと言ってくれました。その御かげもあって、太鼓を習い最高賞も取り、三線、大正琴も地域の公民館で高齢者の指導をしています。郷友会の婦人部の指導もしています。夫は他界しましたが、忙しくしているのであまり淋しいとは思いません。
夜間中学は頭が疲れます。なにしろ初めて鉛筆を持つんです。先日算数の計算が出来たので思わず自分で「〇〇さんは自分1人でやって合ったよ」と言ったらクラス中が拍手してくれました。家族みんなが応援してくれます。娘は、母さんこれまでの60年はこれから60年かけて埋めていくのよーと励ますし、孫はばぁちゃん出来ている?と九九の練習を一緒にやってくれます。辞めるに辞められないですよ。(K.S.さん談)

長女が小学1年になったら一緒に勉強しようと思いながら、また次の子、その次の子と共にと思いつつ生活に追われてそのままにしてきました。夫や同居していた大学生の弟がいたのでなんでもやってもらえたのです。娘が新聞で夜間中学のことを知り、問い合わせてくれました。締め切った後でしたが、空きが出来て入りました。始めは毎日学校に通ったら生活できないと思ったのですが、娘になんとか出来るよ、母さん一生悔いの無い生き方をしたらと言われ、心を決めました。
父が病弱で、兄は兵隊にとられ生活が大変でした。小学校は二里も離れており、山道を1人で通うのは無理だったのと妹の世話をするために家にいました。9歳で1年生に入りましたが、10月には戦争で東村から羽地に捕虜にとられました。そこで干支ごとに学年編成され、私は3年生です。生まれたばかりの弟を背負って授業がよく分からないまま出ていました。その頃はものなんて無く、おしめもありません。背中で弟がおしっこをしても代えようがないのです。みんなが臭い臭いと言い、先生に外に出されます。学校に行っていてもただ時間暮らしをしているだけでした。試験の時も友達が見せてくれるのを写していただけです。
一応卒業してからは、いろんな家で女中をして料理を習いました。結婚してからは一銭マチヤー(駄菓子屋)、魚売り、食堂もしました。クブイリチー、イナムルチ(沖縄料理)など得意ですよ。これで本が読めたらもっと良い味が工夫できると思います。ただ、暗記は得意でした。腕に磨きをかけたくて料理学校も暗記のお陰で卒業しましたし、車の免許も教習本を丸暗記してとりました。19歳の時バスの車掌もしたんです。那覇から石川の停留所を全部カナを振って覚えます。難しい部落の名前は字の形で暗記します。暗算はできますからなんとかなったのです。
母は昨年100歳で亡くなりました。看病をしていた時、新聞も本も読めないのは刺激がなくただ寝たきりで辛いなぁと感じました。介護ヘルパーの免許も娘に助けられてとったのですが、初めて字が書けないことが惨めだと思い知りました。どこかにひがみ根性といおうか、居直りの気持ちがあったのです。なにかあっても「自分字が分からんよー。学校出てないから仕方ないさぁー」と恥ずかしげもなく口にし、誰かに頼る事が当たり前になっていました。情のかけ違いですねぇ。なんでもやってきた一方、人前に出ると怖くなって自分の名前、住所すら書けないのです。一人でいる時は書ける字がどうしても浮かばず、震えます。胸が痛くなります。お店の領収書も値段だけ書き入れるのに、お客さんの前だと一度紙に1,500と書いてみないと間違えるのです。この自信の無さは基礎を勉強し、字の読み書きを習得しないと克服できないと思います。
夜間中学に通って一ヶ月経ちます。掛け算、割り算は思い出してきました。分数は初めてです。先日、妹から少し字がきれいになったと言われ嬉しかったです。自分では気持ちが若くなったというか、考え方が若くなったような気がします。(H.E.さん談) 

2017-09-20T11:37:08+00:00 2017/09/20 11:36:43 AM |まちかんてぃ通信|