まちかんてぃ!通信 第7号

まちかんてぃ!通信 第7号

第7号
連載・聞き書き その7

4月の開校を伝える新聞を読みました。これだ、と思って飛びつきました。今までどうにかしたくても、中学も出ていませんからねぇ。”くもん”にでも行こうかと思ったりもしていました。
10人兄弟の長女として生まれました。小学3年までは子守りをしながらも通っていましたが、4年生頃になると働き手ですからね。朝早く、キビガラを燃やしてその日の芋を煮ます。1日1食が基本です。大きな芋は食べても美味しくないので”うむくぢ”(デンプン)にします。豚、馬の世話、田んぼ、畑と仕事がつきることがありません。学校帰りはにんじんを引き抜いたり、芋は芽が出るとさらさらして生でも食べやすいので、なんでも口にしました。豚のエサまで食べて母に喰わすもんが無いと怒られ、豚のほうが大事なのかと悪態をついたりもしました。母のやりくりは大変だったはずです。あの頃の母の姿を見て、今の私があると思います。16~17歳からは市場に野菜を売りに行きました。野菜を洗って水が滴るままのバーキー(平たい笊)を頭に乗せて1時間半はかかるでしょうか。重くて首を立てていられなくなると道々の石垣に笊ごと頭を乗せて休みます。裸足です。売れると親の喜ぶ顔が浮かんで、嬉しかったですねぇ。
5年生の時に戦争が激しくなります。近所は疎開しましたが、祖父が歩けず乳飲み子がいたので、兵隊に行く前に父が作った防空壕にいました。朝8時に飛行機が襲来し、夕方5時にピタリと止みます。戦争ってそんなものかと思いました。母は赤ん坊がいて動けないので、暗くなるのを待って私一人で畑のあぜ道を這って芋、かずら、野菜くずを集めに出ます。動きが分かれば、照明弾がピーと上がります。友軍(日本軍)の兵隊に、敵軍が上陸するから逃げるよう命ぜられました。祖父を残し、とにかく高台に逃げようと這いずり回りました。大きな家に宿を頼みましたが、赤ん坊が泣いたら終わりだと断られ、墓の骨甕を取り出し一夜を明かしました。どうせ死ぬならと父の防空壕に戻ると祖父は無事でしたが、残していったわずかばかりの塩などが持ち去られています。しかも、周りには友軍により地雷が埋めてありどこにも出られません。一週間後、与根の海岸から戦車が何台も横並びになって火を噴きながら上陸してきました。米兵に出てこいと言われ、これまでと思い顔に鍋のススを塗って出ました。頭をなでられ菓子を貰いましたが毒が入っていると聞かされていたので食べませんでした。乱暴もされません。捕虜にされ具志川に運ばれました。殺されると思っていたので、収容所で握り飯が出た時、始めて生きているんだと実感しました。ヤンバルに移されたり大変でしたが、乾パンや缶詰が配給されました。しかし、生き残っていた友軍に日本はまだ負けていないと食料を取り上げられ、その兵士の姿を見て戦争に負けて良かったんだと思いました。イラク戦争で人質になった人を見ると、戦争反対の気持ちは同じですが戦争を分かっていないとも感じます。こっちは丸裸、相手は人を殺す武器を持っている、それが戦争です。
戦後しばらくして、小学校の卒業証書をもらいましたが、それには実質がありません。学校はそれで終わりです。若者がいないからと月20ドルで幼稚園の先生もしました。その後軍の仕事につきましたが、びっくりする給料でした。結婚してからは4人の子育てをしながら商売をやってきました。仕事がら外に出ることも多いのですが、どこか自信がなく、つい隅っこに行ってしまいます。外人はイエス、ノーがはっきりしているので楽ですが、日本人との会話は自分がうまく会話できないヒガミがあるせいか引いてしまいます。特に書くことに立ちすくんでしまうのです。
一週間は家族にも内緒でしたが、4時になるとそわそわするので、なんで毎晩出かけるのということになり打ち明けました。夫も含めて応援してくれます。そりゃ楽しいです。算数はやれば出来るんだと自信になります。英語は聞くことは出来るのでスペルをゆっくりと教えてほしいです。(S.U.さん談)

いつもの通りラジオをかけながら夕飯をつくっていたら、沖縄に夜間中学ができるというのです。聞いた瞬間「私が待っていたのはこれだよー!」と確信しました。勉強したい、やり直したいとずーと思っていました。中学の時父が事故で入院しました。母は7人の子供をかかえ農業をしなければならず、またブタ、ヤギ、トリも飼っていたので父の付き添いができる状態ではなかったのです。そこで、長女の私が病院に泊り込んで付き添いをすることになったのです。付き添いがいらなくなって学校に戻った時はもう授業の内容が分からなくなっていて、ついていけませんでした。学校が大好きで友達と遊ぶのも楽しかったのですが、授業時間は手持ち無沙汰で中途半端な思いで過ごしていました。ですから卒業はしたものの、なんとなく自分の気持ちに臆するものがあり、勉強をし直す場はないかなぁと心にかけていたんです。
家は農家でお金は無かったかもしれませんが、食べ物は充分ありました。母や近所の小母さんたちと葉野菜を農連市場まで運んだりもしました。眠かったですね。家畜はつぶす時が嫌で、特にあの鳴声が嫌でした。そのためか肉はほとんど食べられません。母はそんな私のために塩鯖を塩ぬきして砂糖醤油の煮付けにし「これは〇〇子のだよー」と用意してくれました。後になって兄弟が多く大変だったはずなのにと有り難く思っています。鯖の煮付けは今でも大好物で、お正月には必ず作ります。
卒業してからすぐ米軍のハウスメイドとして働きました。同じ年頃の女の子達がたくさんいました。みんな集まって洗濯をします。洗濯機は無いので手洗いです。その時にお互いのやり方を交換したりユンタクしたりで楽しかったです。シーツやシャツ、ズボンにアイロンをかけプレスするのですが、その時ちょっとしたシワも許されません。1人分幾らと決まっているのでみんな頑張ってしました。次第に英語を覚えて、カタコトですが会話は少し出来るようになりました。そうなると嬉しくて週1回ですが夜間の英語学校に通ったり、タイプも習ったりしました。習っただけで長い間使っていないのでもうダメですが。いつもどこかにお稽古事ではなく勉強をしたいと思っていたんです。
夫に夜間中学に行くと話したら「えー。今時分から勉強するなんてエライねー。尊敬するよー」と言われ、「なんでー私はしたいよ。一緒にいきましょう」と誘ったのですが、40年働いてきてゆっくりしたいと言われました。5時に夕飯を食べて、バスで通っていますが早く行きたい気持ちですね。こっちに来るのが大袈裟な言い方ですが”生きがい”になっていてとても楽しみです。入学の申し込みをしに来たとき時間割をもらいました。見たら毎日数学があるのでついていけるか不安でしたが、この頃分数の意味が分かってきて嬉しいです。科目のなかでは「英語」が好きです。大勢の中ではあまり話せませんがおしゃべりが好きで会話もまたしてみたいです。「日本語」も星野先生の脱線がおもしろく楽しんでいます。それにクラスの雰囲気がとってもいいので助かっています。今心配なのはこの夜間中学は1年で終わってしまうのかということです。分かったらもっと先の勉強をしたいですよね。やりたいことに遅いということは本当にないものですね。(I.K.さん談)

2017-09-20T12:02:41+00:00 2017/09/20 12:02:09 PM |まちかんてぃ通信|