HPリニューアルにともない、『学校をつくろう!通信』『まちかんてぃ!通信』を再掲載しています。
高等部・専門部が開校した2001年の『学校をつくろう!通信』第21号からの掲載です。
最新号は120号ですが、これからバックナンバーを順次アップしていきます。
珊瑚舎スコーレ 高等部・専門部 開校!
2001年4月21日
4月21日、午後2:00から「開校と入学を祝う会」が那覇市樋川の珊瑚舎スコーレ・多目的教室で開催されました。8名の生徒、学生、聴講生のほか、来賓、父母、教職員など約70名が出席しました。参加者の手拍子で生徒たちが入場し、正面を背に着席すると同時に「かじゃで風」(沖縄の座開きの歌と舞)で会は幕開けされました。代表の言葉、生徒・学生・聴講生の紹介、教職員・参加者の紹介があり、代表からそれぞれの方に謝辞が述べられました。参加者から新入生に贈る言葉などがあり、最後に教職員によって「ありがとう」が歌われました。この歌は専門部の手塚あずきさんが作詞・作曲したものを音楽講座の講師・屋良文雄さんが編曲したものです。詳細は後掲するあづきさんの文章と沖縄タイムスの記事をお読みください。また、開校に先立ち4/14に東京で開催された「開校を祝う会」から贈られたガジュマルや工芸講座の講師、城間栄市さんがこの日のために染め上げた一対のガジュマルの紅型などが披露されました。会の後半は全員が参加してお祝いのパーティーが開かれました。音楽講座の屋良さん、沖縄講座の宮城さんは別格ですが、講師の方々はなかなかの芸達者がそろっていて民謡や島唄などが次々に披露されました。寮生の4人はそれに応えて共同で作曲したオリジナル曲を南米やアフリカの民俗楽器を使って演奏しました。三線のはや引きが始まると踊りが始まりそれにサンバ(沖縄のカスタネット)や指笛も加わり陽気で賑やかな「開校と入学を祝う会」になりました。
2001年4月21日、珊瑚舎スコーレは1歩を踏み出しました。 ありがとうございます。
開校にあたって 珊瑚舎スコーレ 代表 星野人史 |
珊瑚舎スコーレを学びの場として選んでくれた一期生の生徒・学生9名に心から感謝します。 「珊瑚舎スコーレ」の宝物です。彼らを応援してくれる父母、保護者の方々に感謝します。 ‘96年7月、「珊瑚舎設立準備会」発足からこれまでの間、「珊瑚舎」に関わって下さったヤマトゥとウチナーの方々に感謝します。 僕の呼びかけに応えて講師を引き受けて下さった方々、また事務局や寮の スタッフに参加してくださった方々に感謝します。
人は学ぶ生き物です。 それが人の自然です。「学ぶ」ということは「思策し、表現する」ことと言ってもいいと思います。 もちろん、ものを覚えること、知識や技術を身につけることも大切なことですが、それは思索し、 表現するための手段としてあるのであって、 「学ぶ」ということの目的そのものではないように思います。
人は思索し、表現することによって想像力を手に入れます。想像力はさらに思索と表現を、 あるいは知識や技術の獲得を要求します。この積み重ねによって人は他の生き物とは全く異質な 生態を生きることになります。
「人はなぜ学ぶのか?」この問いに答えるために、 資格をとるためとか、教養を身につけるためとか、学ぶ目的や価値をあれこれ考えて、 答えの表皮を一枚一枚はがして行くと、「納得のいく自分自身になるために人は学ぶ」 という答えが見えてきます。さらにその奥には「愛するため学ぶ」という 言葉が見えているような気がしています。唐突な言い方かもしれませんが、 「人はなぜ学ぶのか?」という問いの僕なりの答えです。
愛することとは自分や様々な他者とほどよい距離を保つことです。 他者とのつながりの中で、自分自身を創造するための自分との距離であり、 異質な他者に寛容であるための距離です。それは無知や鈍感を拒否するための道のりでもあります。
「学ぶ」ということは自分や自分の周りに広がる森羅万象に手を差し伸べ、 ほどよい距離を作ろうとする行為のことです。 僕のいう寛容とは他者に対して距離を作ることであり、多様な道筋を持つ状態のことです。
想像力の欠落、言い換えれば無知と鈍感はそれを阻害します。創造と寛容の放棄であり、 人の「内なる自然=学ぶ」の崩壊を意味します。個も社会も病みます。 情報のあふれる消費型都市社会が今、まさに試されているのはこの点です。
想像力の獲得は言葉の獲得と表裏をなしていて、「学ぶ」ことは「言葉を獲得する」 ことと同義だともいえます。自分を自分の言葉で文章化すること、 森羅万象を自分の言葉で文章化することです。 ほどよい距離とは自分の言葉で語ることのできる広さ(狭さ)と深さ(浅さ)です。 このことについては何度かにわたって「学校の役割」(次号掲載)で書いている最中ですので、 ここでは触れません。
「納得のいく自分」をもう少し考えてみると、 納得の中身は人によって具体的にはまちまちですが、 人と人のつながりの中で楽しく充実した時間を過ごしたいという願いがそこにはあります。 この願いは無知や鈍感とは相容れません。人と人のつながりの中に入れないからです。 無知と鈍感はやがてモノローグの自家中毒に陥ります。今、社会全体がこの自家中毒に陥っているのかもしれません。
「学ぶ」ということは「無知や鈍感からの脱出」でもあります。無知は許されます。知ればいいからです。しかし、鈍感は許されません。無知であることに気づかないからです。
鈍感は思索と表現を奪われた状態です。想像力の欠落した状態をいいます。鈍感は好奇心の阻害から芽を出します。自分自身が阻害する場合もあるし、他者から阻害される場合もあります。好奇心は思索と表現を可能にし、自分の言葉を探す力を育みます。豊かな社会、あるいは豊かな場とは好奇心、とりわけ子供や若者の好奇心を満足させる時間と空間があることです。決してもろもろの欲望を満足させることではありません。
「学ぶ」ということは好奇心を想像力によって愛する力に変容させる営みです。学力という言葉があるとすれば、この営みを楽しむ感性を持っていることです。
珊瑚舎スコーレはこのような「学び」を可能にする場としてあり続けたいと思います。学校という特殊な場であるからこそ、それが可能なことがあります。それは授業という日常生活とは別の時間と空間を創造的につくることです。生徒・教員・教材の三者の交流から生まれる場の力を体験することです。それは三者の意図を越えた巧まざる場の創出を意味します。生徒・学生が「自由と自立と、そして平和」を求める意思を手に入れるための場としてあり続けたいと思います。
自由・自立・平和という言葉で表される価値は「愛する」という言葉に繋がっています。
「なんのために学ぶのか?」愛するために、森羅万象に手を差し伸べるために、寛容の道筋を作るために学ぶのです。
教育、とりわけ学校教育に関心をお持ちの方々に「珊瑚舎教育研究会議」の設立を呼び掛けます。
珊瑚舎スコーレの教育を切り口にして、学校教育のありかたについて考え、具体的な提案、提言を各方面にするための場です。
珊瑚舎スコーレの教育をつくるために生徒・学生、教員、保護者の方々、支援して下さる方々とともに学校教育を考えつづけていく場でもあります。学校に出来上がりはありません。いつまでも「学校をつくろう!」なのです。
皆様のご参加をお待ちしております。(’01.5.21)