HPリニューアルにともない、『学校をつくろう!通信』『まちかんてぃ!通信』を再掲載しています。
高等部・専門部が開校した2001年の『学校をつくろう!通信』第22号からの掲載です。
最新号は120号ですが、これからバックナンバーを順次アップしていきます。
漂流教師ここに参上!!
美術講座 講師 吉田 悦治
どもっ!! 漂流美術教師の吉田です。私は面白いことが起こる「場」の匂いに敏感なんです。今までも、そんな「場」の匂いにつられて、あっちこっちで表現活動をやってきました。2年前に沖縄に移り住んだのも、私の嗅覚を刺激するものがあったからです。珊瑚舎スコーレにも、私の大好きな「場」の匂いがプンプンして、「きっと、何か面白いことができる。トンデモなくイケてるものが生まれてくるはずだ。」という直感がありました。
実際、蓋を開けてみると個性的な生徒たちのキャラクターと彼らの眼差しを肌で感じ、「これは間違いなく、面白いことになるぞ!!」と確信しました。そこで、私の担当する美術講座では、表現することを通して彼らのアンテナとガチンコ勝負をすることに決めました。(もちろん場外乱闘もありで・・・)。一人ひとりが自分にとってリアルな表現とは何かを探しだすためのバトルをいろいろと用意するつもりです。時には、美術の枠からもはずれ、挑発的で掟破りなお題を投げかけてやります。もう止められません。熱き戦いの火蓋は切られたのですから・・・
まず、最初に投げかけたお題は(第1ラウンド)「オリジナル・スライドショー」の制作です。一発目から難しいかなっ?と思ったけど、ヤツらのアンテナは予想以上の高感度。映像(今の自分をリアルに象徴できる写真)と音楽(お気に入りの歌や自分を投影できそうな曲)をリミックスしてのプロモーション映像(2001年バージョン)を創ってもらいました。自分の日常や現在の姿かたちを実写でフィルムにおこす者もいれば、自分が描いた絵やイメージに近い既成の写真をフィルムにおこす者もいる。フィルムに直接手作業で加工する者までいる。30本以上のフィルムの中には、ボツになった写真も多数あった。珊瑚舎に泊まりこんで仕上げの作業や休日返上で編集をする者も居て、「なかなか気合い入ってるやんけ!!」と感心した。彼ら自身の眼差しで選び抜かれ、編集された映像のクオリティの高さには、はっきり言って驚いた(嘘ちゃうで!ホンマやで!)。
発表会では、プロジェクターでスクリーンに大きく映しだされた映像と音楽が鳴り響き、そこには一人ひとりの「わたしは、ここにいる。」というメッセージが感じられ、なんだか忘れ物を取り戻した時のような気持ち良さを私は感じることができた。
う?ん、残念だが第1ラウンドのアート・バトルでやられたのは私の方かもしれない。しかし、これはまだ序の口。第2ラウンドは「コミュニケーション・アート」でガチンコだ!! お前ら、逃げるなよ!!
学校の役割 その15
前々号で指摘した「言葉を持たない感情だけが混沌とした時間を浮遊する状態」から抜け出すために「別の出来合いの言葉の中を生きる」ということについて考えてみたいと思います。
去年の6月9日、那覇の高良で15歳の無職の少年が暴行を受け死亡する事件がありました。翌日、中学校の同級生だった15歳の無職の少年と、高校2年の17歳の少年が警察に出頭し、犯行を認めたため逮捕されました。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、概要を沖縄タイムスの記事(2000/6/13)から抜粋します。
「少年らは八日夜、仲間約十人と同市内の路上で酒盛りをしていた。上地さん(筆者註・死亡した少年)も後から加わった。その席で、少年は上地さんに買い物を命じる。しかし、ビールの銘柄が違っていたことに、少年は「許しておけない」と腹を立て、上地さんを人けのない墓地まで連れ込んだ。少年は昨年九月、糸満市の公園で、別の中学生と二人で上地さんに暴行を加え、指の骨を折るなどした傷害事件を起こした。少年は傷害容疑で書類送検され、保護観察処分を受けた。こぶしや棒切れで殴るうちに、傷害事件でのいきさつが脳裏にちらついたという。高ぶる感情を抑えられないままに、暴行は激しさを増した。高校生(筆者註・携帯電話で呼び出された)は止めに入ったとき、上地さんの手が目に当たり、「かっとなって」こぶしを振り下ろし始めたという。棒切れでたたき、ブロック片を投げつける。現場には、ほかに二、三人の少年がいたが、止めることはできずに「死のリンチ」は続いた。「ごめん、ごめん」と繰り返した上地さん。必死に体をかばっていたのか、両腕は打撲傷で真っ黒になっていたという。激情に任せるままの殴打。やがて「このままでは警察に通報される」という焦りが生じる。瞬間、こぶしは歯止めを失った。現場には、少年たちが犯行時に飲み食いした、おにぎりの包み紙やジュースの空き缶が残っていた。犯行後、少年らは血で汚れた手を近くのコンビニエンスストアで洗い、従業員らに「人を殺(くる)してきた」と話していたという。」
暴行を加えた15歳の少年が小学生だった時の担任の先生と話す機会がありました。小学生の時の少年と今回の事件を引き起こした少年とのギャップがあまりにも大きく、それを埋める言葉が見つからない状態だとおっしゃっていました。担任の先生が感じているギャップを少年の側から見てみたいと思います。
誰もが直面することですが、彼は大人が作ってくれたこれまでの言葉の世界を拒否しなければやっていけない状態に直面していたでしょう。否定ではありません、拒否です。否定するためには言葉が必要です。また否定できれば別の表現を持っていたはずで、こういう悲劇は生れなかったはずだと思います。これまでの言葉の世界から裏切られた思いが強ければ強いほどギャップは深まります。新たな言葉の世界を手に入れることはなかなかできません。自己確認が手っ取り早く、分かりやすい別の出来合いの言葉の世界に生きるほかないのです。
人間の歴史が何とかして克服しようとしてきていまだに克服しきれない否定的な価値、つまり暴力とそれを是とする暴力構造のもつ他者の言葉を拒否する明快さは人間の中にある負の心のふるさとのようなもので、いつの時代もある状況に陥ったものには魅力があります。軍隊の人間関係を賛美するときよく言われるように、彼らが作る仲間の世界にも分かりやすい規律と人がいるところには必ず生れる心のふれあいや、人間的な交流もあります。しかし、弱者や異質な他者に対しては容赦ありません。
特殊な事件ではありません。「教え子を戦場に送るな」という言葉から半世紀、「教え子は戦場を作っている」という言葉が聞こえます。(ほ)