まちかんてぃ!通信 第10号

まちかんてぃ!通信 第10号

第10号
生徒作品 「記憶と思い出」その2

 

「一番古い記憶」 M・Bさん
昔私の父はダンパチ屋でした。店には大人の人や子供達でいつもいっぱいだったと頭に残っています。父は手を休めずチョキチョキと一生懸命に働いていました。時どきお話をしながら笑ったりもしていました。お店がいそがしくなると母もてつだっていました。私が四才か五才の頃だったと思います。私の家は庭が広く縁側がいつも涼しくて、大変気持のよい所でした。そして毎日のように近所のお友達が来て私達姉妹はいつも楽しくままごと遊びをしていました。そのお友達も今はもういません。あの忌まわしい戦争で皆影も形もありません。すごく残念に思います。

 

「海水浴の思い出」 Y・Kさん
小学校三年の夏休みに、先生と生徒大勢でよなばるまで歩いて行く事になった。近道は下り坂でデコボコ道だったが皆楽しく歩いた。三回行った記憶がある。浜に着くと泳ぎを教えられないまま体操をしてすぐ海に入った。私は泳げないので浅い所にいたが波とたわむれて楽しかった。海から上がるとアマガシがあった。体も温まっておいしかった。最後の日だったと思う、先生が手を引っぱって深い所まで連れて行き手をはなした。私はあっというまに海に投げだされ、足が着かない。手足をバタバタしていると、やっとだれかの足を捉まえた。立って見ると浅い所にいた。ちょっと恥ずかしかったけど、助かったと内心ホットした。今思うと海の恐ろしさを教えてもらった気がする。

 

「楽しい思い出」 U・Tさん
去年友達とヤンバルへドライブに出かけました。東村のつつじ祭の見物のため。途中色々な木、花を見ながら目的地に着きました。赤、白、ピンク、紫色の花が満開でとってもすばらしいかったです。帰りに、大根、キャベツ、みかん、花を買って、高速で帰って来ました。たのしい一日でした。

 

「遠い日の思い出」 K・Eさん
私が生まれた時代は、第二次世界大戦が始まった頃です。海中道路で有名な与那城町の母の実家で生まれて、初孫が出来たとのことで皆にかわいいがられて育ちました。あれは、私が四,五才の頃の事かと思います。始めて見る異国の人、目がブルーで背が高く子供心にもこわくてないた。でも外人さんがくれたチョコレートの味は、今でも忘れられません。

 

「疎開した思い出」 A・Hさん
私が四才の時に戦争のために宮崎の南郷村神門に家族で疎開しました。その年の冬、外の水道の下の水たまりに氷がはっていたことを忘れることが出来ません。また、兄と姉が学校に行く時寒そうにしていたことを思い出します。母が生活のために田植えの手伝いをしていましたが、私と弟はいつも田んぼのそばで二人で母が帰るのを待って遊んでいました。五才になった時戦争が終わり父が帰って来ました。父は厳しくて兄と姉はいつも叱られていました。  小さい時の思い出です。

 

「古い記憶」 M・Oさん
私は当時六才だったと記憶しています。母方のお婆ちゃんに連れられて那覇ケーイツンドー(那覇に行くよ)といわれ、それは夢のような出来事だったので今でも鮮明に憶えています。 その日はお婆ちゃんがわざわざ私を迎えにきてくれてお婆ちゃんの家に連れて行かれ家に着くとお婆ちゃんが井戸で裸足の私の足を洗ってくれました。家の中に入ると今度は大きなタライで私をおふろにいれてくれました。そしてたんすの中から見たこともない赤い花もようのきものを取り出しそれを着せると「これから那覇にでかけるよ」といわれて私は喜んではしゃいだのを憶えています。家を出て門の前で初めて見る人力車が待っていました。行き先をつげ、その車にのって、私はお婆ちゃんのヒザの上に座り、おじさんが小走りでひっぱる車で那覇につきました。私はその時たいへんな仕事もあるんだなーと子供心に思いました。何もかもはじめての経験でした。帰りはカゴにはいったみかんを買ってみらい大事にだいて帰りました。 あの時の事はまるで夢のようです。

 

「一番古い記憶」 R・Nさん
私が五才の頃だったと思います。夏のあつい時、やしきのいっかくに大きな木が有りました。其の木の下におばあさんがすずんで居ると、弟がいたずらしてなげた石が、おばあさんの頭にあたり血が流れて、それを見た弟がびっくりしてにげました。母はおばあさんのけがを心配して、畑のそばにはえている草をつみ、手のひらでもみ、あわを取り、きず口に付けておうきゅうそちをしました。すると血が止まり、おばあさんも元気を取りもどし、家族皆も安心しました。

2017-09-20T12:21:55+00:00 2017/09/20 12:16:52 PM |まちかんてぃ通信|