第3号
連載・聞き書き その3
離島で7人兄弟の4番目に生まれました。父は病死と言っていますが、戦争中に爆風で飛ばされ1週間意識不明になり、意識は戻ったもの戦後すぐに亡くなりました。私は7歳でした。長兄は沖縄戦で戦死、母は6人の子供を1人で育てることになったのです。すぐ下の弟が病気だったので、母と姉は治療費を工面するため那覇に働きにでました。次兄が畑で、7歳の私が家の世話をし下の兄弟を面倒みていました。
一番辛いのは水汲みでした。庭先にある2つの大きな石甕を毎日一杯にします。大人の足で30分かかる山道を井戸まで何往復もします。木桶をいっぱいにし、揺れて水がこぼれないようにソテツの葉で覆い頭に乗せて帰ります。友だちと一緒の時はおしゃべりをしながら歩くので重労働ですが楽しいのです。みんな学校に行くようになると1人でするので辛かったです。雨が降ると大木に綱をはり、タンクに水を溜めます。戦後しばらくすると島にもコンクリートの水タンクが作られるようになりましたが、私の家では私が那覇に出てからです。
豆腐を作るための海水とりも大変です。重いというより、海が荒れている日は海水を汲むが怖いのです。ある日、家の前まで運んできたのに疲れて石につまずいてすべてこぼしてしまったのです。泣き泣き戻りました。食べるものが少ないからオカラをとらない豆腐を味噌汁にして食べます。本物の豆腐はお祝い事のときだけに作ります。ソテツの実もたべましたよ。
小学校1年は行ったり、行かなかったりで、10歳からはすべてやっていました。同級生からは学校にいかないとバカにされることもありましたが、女は学校なんて行かんでいい、行ってなにする、メシをつくれと兄に怒鳴られていました。
ある時、知り合いからバレーボールをもらったのです。嬉しくて近所の子と夢中になって遊んでいて夕ご飯を作り忘れました。畑から帰った兄がすごく怒り、そのバレーボールを遊んでいた子供の数に切り裂いてしまったのです。一度も口答えしたことのない私でしたが、この時は「精神がわるいさぁー」と言ってしまい、したたか殴られました。兄は責任があったから厳しかったのだと思います。後になって、あの時は・・・と笑い話をします。今は優しいですよ。
15歳の時、今度は私が那覇に出て、母が島に戻りました。親戚の子守りを始めに、住み込みで少しでも給料が高いと聞けばそっちに移り、転々と職を変えました。仕事合間が1~2時間あると集金でもなんでも用事をもらい、常に2つ以上の仕事をしていました。そして、同じく那覇で働く兄弟たちが給料を酒代に使う前に集めて島の母に送るのです。私は給料をそのまま送り、用事でもらうわずかなビーセンを小遣いにします。どうしても必要な読み書きは人に頼んでいました。
結婚の時も、相手に迷惑をかけてはと自分から学校に行っていないことを打ち明けました。夫は勉強だけが人生じゃないと言ってくれ、その一言で決心がつきました。子供が大きくなると婦人会、PTAなどの活動が増えます。お手伝いしたいのですが読み書きができないので、人の後から付いて行くしかないのです。いつも人の後ろに隠れているのです。心が痛いですよ。
子供が新聞を読んで、母さん、こんなのあるよぅと言ってくれました。小学校も出でいないのに中学校に入れるわけないさぁと考えていました。子供が問い合わせるとイイというので、これはチャンスと来ました。子供のほうが入学できるか心配して親のようでした。夜間中学は勉強が大変で、分からないところもありますが苦しいということはありません。これくらい恥じをかいたらもうかく恥はないから、とにかくがんばりたいですね。だって楽しいんですから。(Y.S.さん談)
夜間中学が出来るということを新聞で見ました。どこでするのか分からず県に問い合わせしましたがダメで、那覇市の教育委員会で珊瑚舎を教えてもらいました。
入ろうと思ったのは、小・中学校の基本をしっかりと見につけたかったからです。高校は出ていますので、問題の答えは出せます。しかし、子どもに分かるように説明し教えるのは難しいんです。実は私は学童の少年野球のコーチをしています。土・日曜日は小学校のグランドを借りて野球を教えています。野球をすることで勉強がおろそかになったり、学校の勉強についていけない子どもが出たら困るということがありました。そこで、勉強のほうも私が教えますと約束してしまったのです。子ども達をなんとかフォローし、好きな野球を続けさせたいという思いが強かったからです。また、先生方とも日ごろのつきあいがありますし、そのままにしておくのは自分の気持ちとしても嫌なんです。
これは自分の子どものことも同じです。小学校高学年になると難しくなり、教えてやりたくても相手がきちんと理解するように説明するのは大変です。
夜間中学の算数は詳しく、掘り下げて教えてくれますから助かっています。私が求めていたものです。自分が教える立場になった時、どこでつまずくのか、どんな受けとり方をするのかが見えてきます。分数の意味が分かって、計算ができたら楽しいはずなんですよ。仕事で毎日出席というわけにはいきませんが、欠席の日はプリントをもらい、自分なりに勉強しています。日本語はすべての教科の根本だと思います。動詞、助詞ということばは知っていても、その使い方が正しくできるわけではありません。句読点をどこでつけるか、「が」と「は」、「へ」と「に」の使い方など大事なんだと改めて分かりました。特に夜間中学に通っている人には一番必要なことです。夜間中学にはいろんな人が通っていますが、その中で、初歩からスタートする人に手を差し伸べることがこの場の役割だと思います。
今、キツイというか恥ずかしさが先に立つのが体育です。フラダンスや踊りをすることにやはり抵抗があります。でも、なんとか一緒にやっていますよ。もっと男性が多ければいいのでしょうが。英語は曜日で教え方が全く違うのでとまどいましたが、少しづつ使い方が分かってきています。
夜間中学に通うことは勿論家族に了承してもらっています。高校生の子どもにも夜間中学でこれだけ勉強してきたぞと説明すると、なるほどねぇと頷いてくれます。妻は私があれもこれもやるタイプなので、見守っているということでしょう。
私にはもう一つ夜間中学に寄せる思いがあります。おふくろが字の読み書きができません。もう少したって母がひらがなの読み書きができるようになったら、夜間中学に誘いたいのです。ぜひ母にもみんなと一緒に学ぶ体験をしてほしいのです。(A.O.さん談)