第6号
連載・聞き書き その6
ここの夜間中学は新聞で知りました。普段は死亡広告以外は拾い読み程度しかしないのですが、この日はなんとなく全部を読んだんです。ちょうど自分の居場所を探している頃だったのです。少し前から週1回の方言教室に通うようになり、隣の席の人が書いた文章を見て、漢字も書けないといけないなぁと感じました。それまでの私はひらがな、カタカナが書ければ通じるんだからいいさぁーと思ってきましたし、病院に行っても私は漢字がダメだから代わりに書いてということが平気でした。
勉強が嫌いというより好き嫌いがはっきりしていました。人も同じです。小3の家庭訪問の時、隣の同級生のところは訪れているのに、わたしの家には来ませんでした。何回もおばぁちゃんが待っているから来てねと頼んだのですが先生は卒業まで1回も来ませんでした。その時、はっきりとハーフだから見下げられている、人は信用できないと思いました。おばぁちゃんにはハーフだって同じ人間なんだから蔑む相手には目をつむってかきむしってやれと言われていました。ケンカは強かったですよ。
中学になるとかなり反抗的でした。嫌な学科はおしゃべりをしたり、漫画を読んだりでした。英語は3年間ABCの一言も口にしませんでした。先生は出来ないとチンブク(竹の教鞭)で打つのですが、女子は私だけでした。なんで私を捨てていった父の国の言葉を習うのか、同じ日本人なのになぜ私は違うのか。人間はみんな嘘つき、勉強なんかしてどうなるという言葉に言い表せない屈託した思いが常にありました。親身になって心配してくれる人が欲しかったんですね。
おばぁちゃんというのは育ての親です。実母は三才の時、再婚しました。私が再婚した父に懐かず養女になったのです。実父のことは記憶にありません。母はサイパンで女学校を卒業し新聞社で働いていましたが、戦争になり両親を失い沖縄に戻ったのです。父と知り合い結婚しようとしたのですが、姉から両親を殺した相手(アメリカ人)と結婚するのかと反対されているうちに父は朝鮮戦争に行ってしまい、私が生まれたのです。帰ってから父は私を引きとりたいと言ってくれたと聞きました。幼稚園まではものを送ってくれたり、養育費のようなものも届いたそうです。父が母に宛てた一通の手紙を持っています。便箋7枚に小さな字でびっしりと書いてあります。母が読んでくれるには「あなたはヤナカーギー(美しくない)だけど心がきれいだから子どもはあなたに似るといい」と書かれているそうです。誰も信用しないと言っていた私ですが、これまでに3回に渡って父を探しました。初めは12歳頃です。18歳の時、社会保険庁である程度のことが分かりました。アメリカの南部の方にいること、再婚していることが分かりました。連絡はしません。
息子が一人います。働いていたので養父母が育ててくれたようなものです。この子が18歳の時、事故で半身不随になります。必死で看病しました。はっきりとものを言うので医者とも何度もケンカをしました。埼玉に国立リハビリセンターがあると知り親子でがんばり入所し、今は自立しました。おかしなもので息子が事故にあって、初めて人間の幸せ、子どものいることの有難味が分かりました。それまでは人に対しても白か黒か、裏か表かといった割り切り方をしていましたし、今が楽しければ良いという刹那的考えがあったのです。その私が去年ぐらいから、野菜や草花を育てることに興味をもち、今ではいろんな種を育てるのが楽しいのです。自分の中にもなにかが芽生え初めていたのでしょうか。
夜間中学に通い始めて、私は学ぼうという気などなかったのに、みんなはずーっと求めていたことに感動しました。これまでどうして自分は拒否していたのか、バカだった自分を知らされた思いです。算数はやれば出来る気がします。英語は暗記があるので心配ですが、かつてのような拒否感は全くありません。(S.N.さん談)
小学校3年生ぐらいからの勉強をもう一度したいと10年以上前から考えていました。夜間高校に入学したらどうかと問い合わせをしたこともあるのですが、子育てをしている中、子供達の教科書を見ると小3の内容でも分からないところが多いのです。基礎が大切だと実感します。ある日曜日の新聞に夜間中学校開設の記事が載っていました。初恋の人に会ったようなと言うか、この喜びの気持ちはなんとも言えないです。勉強したいと思って、このかた心に棘が刺さっているよう気持ちでしたから。月曜日にすぐ珊瑚舎に電話をしました。住所を聞いて来て見たら、びっくりです。この近くの病院に孫の看病に通っていた頃、信号待ちしながら「あぁあそこにも学校があるんだ」と看板を眺めていた所だったんです。なにか縁があると嬉しくなりました。
私は高校中退者なので履歴書に中卒と書きます。それを見るとたいていの人は、どうしてという顔をします。ですから履歴書に高卒と記入したいと以前は思っていました。でもここ4~5年で考えが変わりました。学歴ではなくきちんと基礎を学び、ゆくゆくは心理を学びたいのです。孫が難病で何度も心臓が止まり、その都度奇跡的に蘇生し生き延びています。母親である娘も出産の時は、医者からほとんどダメと言われました。一度無くした命を授かった2人です。3歳までしか生きないと言われた孫ですが、今4歳です。しかし、娘の苦労、心痛は人並みのものではありません。この娘を精神的に支えられるのは母の自分しかいないと分かりました。大丈夫、なんでもない、なんとかなると励ましてきました。心理学の本を読み出したのですが、基礎がないと深くまでは理解できません。そういう大変な最中に自分がガンと診断されました。ショックで、泣いて泣いて、なんで私なのと途方にくれました。医者に手術されるのも治療を受けるのも私です、すべて話してくださいと頼み、心を決めるまで誰にも話しませんでした。息子がくれた手紙の嬉しかったこと。家族あっての私です。ガンもきっと克服できる、挫けないとプラス思考でやってきました。私の身体はなんとかなっています。でも、娘と孫のこれからを考えると、何年かかっても心理学を学びたいと思います。
夜間中学は楽しいですよ。仕事もさぼりたいくらい楽しい。10年以上思いつめた夢が珊瑚舎があって叶ったのです。初日に学生証の写真を撮りました。写真嫌いの私ですが、あの写真は120パーセントの笑顔です。時々見たりするんですよ。娘が近頃母さん生き生きしてるわと言ってくれました。分かるんですね。クラスは今までとは違った友達が居ていいですね。人生の達人たちが同級生ですから、自分にないものを貰えると思っています。私は人見知りですが、役目はテンションを上げることかな。珊瑚舎は国語と言う言葉は使わず「日本語」と言いますと最初の時間に星野さんが話しました。それを聞いてここに来てよかった、間違いないと確信しました。傷つけるのも、慰めるのもことばです。ことばはすべての基本、コミニュケーションの源です。外国語も含めてことばをきちんと習いたいと思っていたので、「日本語」と言う言い方は新鮮でした。(O.N.さん談)