まちかんてぃ!通信 第8号

まちかんてぃ!通信 第8号

第8号
連載・聞き書き その8

夜間中学に入ろうと思ったのは知り合いがこの学校のチラシを持ってきてくれたからです。そして東京の夜間中学の映画「こんばんは」の映画も観にいきました。90歳を超えた人も生徒にいるとわかり、それならばと思ったのです。というのは、何十年も前ですがある新聞にタマキヒロゾウさんという60代の人が大阪の夜間中学校に通っていると小さく載っていたんです。大阪のような大きい街にはそんな学校があるのかと思いました。その人が「学ぶことには歳は関係ない」と言っていたのを覚えていました。

私は宮古島で生まれました。5人兄弟でしたが、兄3人は都会に出てしまい、弟は幼くて亡くなり、私一人が親元に残りました。小学校は”サイタ、サイタ”と”サルカニ合戦”を習った覚えはあるのですが、あとはほとんど覚えていません。中学生になる年頃はもう一人前の働き手でしたから。畑仕事はもちろん、お金が入るとわかれば山の植林や一袋10キロはあるセメント袋を日に数十回とかなり遠いダム建設現場に運び上げました。頭に乗せてです。暑くて暑くて大変でした。また、男10名のユイマールに入り、クワを持って男同様に土地を耕すのです。私が嫁にいったら両親はどうなるのかといつも心配していました。ですから結婚も28歳と遅かったんですが、その分働いて親孝行できました。
着の身着のまま沖縄島に来て、なんでもやりました。全部力仕事、男仕事です。夜中の2時に多いときは500キロ相当の魚を八重山から受け取り、一人でトラックに積み込んで魚連の冷凍室に運び込むのです。早くしないと気の荒い海人(うみんちゅ:漁師)にじゃまだと魚箱を投げられますから必死です。工事現場にも行きましたよ。ビルの基礎工事で型枠にホースでコンクリートを流し込むのですが、ホースは重いし振動が激しいので自分が振り回されて転んだりもします。体は病むのですが貧乏に巻かれているので食うためには現場が一番でした。女も何人かいてお互いユンタク(おしゃべり)したりでそれが楽しみでした。しばらく辛抱して夫とブロック業を始めました。生まれ島から頼ってくる若者5,6人の賄いもしながらセメントをこねたり子育てもします。がんばって車の運転もするようにし、軽貨物もしました。若かったからね、なんとか耐えられたんです。
夜間中学に入って一月近く経ちますが、算数が難しい。黒板を見てやっている時は分かるような気がするのにねぇ。自分でやろうとすると出来ない。先生方は親切に教えてくれるのにすぐ忘れてしまう。努力すればというけど、本当かなぁ。でも、まさか自分が夜間中学に行こうとは。なにかに誘われたような気がします。神様にあんたは頭が悪いから勉強しろと。今までは老人センターに行って体操や三線をするのが楽しみだったけど、ここのクラスはみんな人柄もいいし、通って来るのが楽しみです。これで勉強が出来ればもっと楽しいんですけどね。(T.Y.さん談)

 

 

ある朝、NHKラジオを聞いていたら沖縄に夜間中学が出来ると聞きました。早速、電話すると日祭日で問合せできません。幸いなことに学校の名前は覚えていたので、娘がパソコンで調べて「珊瑚舎スコ-レ」が分かったのです。次の日、仕事帰りにすぐ珊瑚舎に行って入学の手続きしました。
字を書くのが苦労です。汚いし、文章も苦手です。でも、介護ヘルパー2級に挑戦したくて電子辞書を買いました。レポートを書くために、一つ一つ漢字に直します。悔しくて泣きながら書きましたよ。合格しました。その後の実習も大変でした。今もヘルパー同士の伝達事項を書きます。お客さんの状態、冷蔵庫の中身などです。免許は取ったもの、これでは満足のいくいい仕事が出来ないと悩んでいました。夜間中学校に入学して勉強していることを同僚に言いました。みんなが応援してくれています。
父が9歳の時亡くなりました。6人兄弟で、兄、私、そして下に4人です。小学校は下の妹をおぶって行きました。片足はゲタ、もう片方はゾウリを履いてね。妹が泣くと先生に○○さんは外にねーと言われるので授業はほとんど受けていません。那覇は街なので薪1本ですら金がかかります。母にとっては兄弟全員分の教科書を買うのは大きな負担です。4年生の時、養女にいきました。口減らしです。養母が病気でお手伝いさんの代わりです。学校には行かせてもらいましたが、1年あまりで養母が亡くなりました。後妻が連れ子だったので、他人の子は養えないと実家に帰されました。だから、5年生の夏までの1年ちょっとで学校はストップです。兄は工業を学んでいましたが、辞めて就職し、そのお金で下の兄弟たちは学校に行きました。今、一番空しいのは同級生と呼べる人がいないことです。夜間中学の仲間は同級生ですから、大事にしたいと思っています。
実家に戻ってすぐ、月2ドルで住込みの子守りに入りました。人間関係に恵まれて、ここの家でも大事されました。その家の一番大きい子は私より1つ下でしたが、その子同様に下着から洋服まで手縫いのものを着せてもらっていました。奉公人ですから、休みは盆と正月だけです。実家に帰ると下の兄弟が私の顔を見て「だれー」と言います。母が「大きいネーネーだよ」と言いますが、なつかないうちに帰るのが悲しかったです。15歳になった時、母にもっとお金になる食堂で働こうと言われました。奉公先のお上さんがその内洋裁学校に上げようと考えていたが親とは争えないなぁと言われたことを今も覚えています。食堂にしたのは、字も書けないし、女だから料理が出来るようになりたかったからです。でも、その食堂に初めて行った時断られそうになりました。色が黒く、小さく痩せっぽちだったので使えないと思われたのです。雇ってもらえなければ、どこに売られるか分からないので、「影日向なく本気で働きますので」と訴えました。この一言で決めたと後になって店のおばさんが打ち明けてくれました。言葉どおり一生懸命働きました。そのせいかここでも可愛がられました。今でもおばさんは時々どうしてるかぁと連絡をくれますし、ここの子供は私をネーネーと慕ってくれます。33歳で結婚し、子供が2人います。
学べるって楽しいですよ。隣の人から「答えは合ってるよ。でも式が違う」と教えてもらっています。算数は式がまだ書けないんです。英語は未知の世界でABCも充分ではありませんが、フィーリング的には掴めるものがあります。子供時代は今より外人が多く、英語を耳にしていたせいでしょうか。小さい頃兄弟の手を引いて歩いていたら、突然ブルドックの様な黒人兵が寄ってきてお金をくれたこともあります。その日は日曜日で近くの教会に米軍兵士が集まっていたのです。4トントラックで来ていました。それ以来母がさりげなく今日は日曜日だよと言うのです。教会の前で女の人が「マイハングリーテンセンプリーズ」と言っていたのを覚えています。身近なことばでした。 子供や同僚に頼るのはやはり苦痛ですから、早くきれいな字で文章を書けるようになりたいですね。(O.M.さん談) 

2017-09-20T12:10:11+00:00 2017/09/20 12:05:42 PM |まちかんてぃ通信|