(夜間中学M・Y)

(夜間中学M・Y)

栄子は、昭和十五年二月に満州(中国)大連に生まれたそうです。五歳の時に戦争があり日本が負けて戦争は終わりました。
疎開先から沖縄に家族皆で引き揚げることになっていましたが、なぜか父親は疎開先にのこり沖縄には帰ってきませんでした。そのために、栄子は母親と一緒にアイスケーキやアメ玉を売ったり夜には映画館の前でガムなどを売って生活をしていました。母親は病気で体が弱くどうしても栄子が一緒にいないと商売が出来ませんでした。それで学校に行く年齢にはなりましたが、早く帰り母親の手伝いをしないといけませんでした。学校の先生も家庭の事情がよく分かっていました。「来られるときはいつでも学校に来るように」と云われていました。しかし、なかなか行くことが出来ませんでした。
十歳になった時、石川さんという親切な方が、自分のお店の角を半坪ほどかしてくれました。それからは品物を仕入れて売るようになり、糸満でしたので二、三日に一回は那覇に仕入れに行きました。その時のバスは、トラックバスで栄子は小さいのでタイヤに足をおいてバスを乗り降りしたそうです。
十四の時に学校に行かせてもらえると思いカバンに教科書なども入れて住み込みで那覇で働くことになりましたが、学校へは行かせてもらえませんでした。でも商売やたくさんのことを学ぶことが出来て、栄子のその後の人生に非常に役に立っています。
栄子は、テレビで山田洋次監督の「学校」を題材にした作品を見るといつも涙が出てしかたがありませんでした。他の県では夜間中学校があるのに沖縄にないのを残念に思いました、いつかは勉強をしたいと心の中で思いながら生活をしていました。
その思いがかなう日が来たのです。忘れもしません。二○○三年十二月十日水曜日の沖縄タイムスに、沖縄に夜間中学校が開校すると記事があり一気に読みました。読み終わるとすぐに珊瑚舎スコーレに電話を入れていました。
入学すると先生方は優しく、ていねいに教えて頂き夢のような気持でした。
二年生になった時に、星野理事長と一年生の新垣さんと私の三人が代表として、県議会の文教委員会の皆様に、夜間中学校について要請をしました。「一万六千人以上の署名」を提出し夜間中学校で学んでいる私たちが卒業資格が得られるように栄子もお話をしてお願いしました。
栄子自身も珊瑚舎スコーレで勉強し、多くのことを学び度胸がついたと感じています。月日がたつのも早いもので、三月になると卒業です。でも栄子はもっと珊瑚舎で学びたいことがたくさんあるので卒業はしません。あと一、二年は元気で頑張り珊瑚舎スコーレにお世話になりたいと考えています。(夜間中学M・Y)

注:珊瑚舎の夜間中学校では本人の希望により最長9年間在学することができます。

2017-03-16T14:20:24+00:00 2017/03/13 1:20:01 PM |自画像|